することより、しないことを決める。
新刊ビジネス書を一切読まないことにする。
古典は読む。そうでないと時間が足りない。
食事
政府や企業が売りたいものを操作しているので正しい情報が難しい。
コメはあんまり食べない、ポテチとかも避ける。血糖値を上げすぎない。魚を多くとる、ナッツを食べる、野菜を食いまくる、コーヒーちょこちょこ飲む、卵と乳製品もほどほどに。
薄味になれる、濃い味は避ける。
成分はあまり関係なく、何を食べるか。
Twitterに書いたやつ
①スポーツの世界では、当然のことながら結果が最重要視される。 大学スポーツにおいても結果は重要視される事柄だが、それだけでなくそのチームの組織と個人がどれだけ闘争したかも重要だと思う。 結果を出せてない=頑張れていない・努力が足りていない、という考え方を打破する論説を示したい。
②結果出せなかったとしても、メンバー間で猛烈に日夜議論をして、日々難航の中で闘い続けた組織と個人にこそ大学スポーツの醍醐味と価値があると思っている。 組織と個人の優劣は、結果だけで規定されるべきではないというが端的な結論 この辺りについて考え続けているが全く言語化できず苦心している
③A:センスと生まれ持った身体で、それなりの練習で勝てている選手 B:大学から競技を始め、身体も大きくないが不撓不屈の努力で準決勝に進んだ選手 結果というモノサシで見れば明らかにAが優秀だが、違う見方をすればBの方が優秀 長い時間軸で考えたらBの方にこそ価値があるのではないか、など
④結果を求めていく上で、自分由来の思考・実践・挫折・成功体験などといった無数の闘争体験を経た上での結果には最上の価値があるが、マグレやポテンシャル・誰かのイイナリのままただやるなどで得た結果での価値は薄いのではないか
⑤こうした考えのもと「結果は全てだが、全てではない」という現在の価値観に繋がっている 「結果が全てではない」を成果を出せていない人が言うとただの言い訳になってしまうが、それは真理であるので間違ってはいないというジレンマ
岡本太郎の馬力…エネルギーが凄すぎる
限界という言葉がある。割と日常でも使う言葉だ。「限界を超えろ!限界突破!」や「もう限界だよ」とか。
限界は、自分が想定・想像できている時点で限界ではない。限界とは自分で全く想像も想定も出来ない超次元で未知な領域のことを指す。
言葉にしなくても我々は自分自身で限界を決めてしまっている。例えば、有名なのは1マイル4分の壁の話だろうか。
「自分はこういう人間だから」とか「それ俺には向いてないから」みたいな自己規定的な思考をする人の想う限界を〝限界α〟としよう。限界α的思考の生き方はオリの中で生きていく、または枠の中で暮らす生き方だ。自己をあるゆるモノサシで規定してしまって、その世界の中でしか物事を考えない。なんと狭い生き方か。
逆に、常に自分を壊して創造し直す。謙虚と遠慮を履き違えず、自分という人間の可能性を〝一切〟規定しない、定めない。周りから見れば夢想家なのかもしれないが、当の本人は至って真剣に自己の可能性を信じている。こうした人の考える限界は〝限界β〟だ。限界βな生き方は非常に危険だ。惰性で安定的な今の自分の権威と態度を壊し続ける。世間の常識を疑い、反対の声をあげる。痛みを伴う。枠の中で生きていないのでルールもない、ゆえに枠の中のルールで生きている人達から批判もされる。それでも枠なんぞ考えず、今ある安定を破壊して未知の領域に一歩一歩踏み出し続ける。こうして辿り着く世界こそ〝真の限界〟。限界という言葉は同じだけれど、限界βの人間は辿り着けない、限界αの人だけが知っている世界がある。
もう今は出来ないよ、という過去を積み重ねていく
僕が考える価値のあることの一つに、「自分がやってきたことだけれど、今やれと言われた絶対に無理」という経験がある。
この経験の数々が自己肯定を生み出し、修羅場に対した時に自己効力感として武器になる。
人間には〝今〟しかできないことがある。時間的(ex.海外旅行)、身体的(ex.ハードなスポーツ)な制約による〝今〟しかできないことにフォーカスされがちだが、僕は精神的に〝今〟しかできないことに大きな価値があると考えている。
あらゆることがそれに当てはまるが、自分であればボート競技。早朝に起きて午後もひたすらパフォーマンス向上に向けてトレーニングなんて絶対に〝今〟できない。正直に言って今の自分がそれに価値を感じないからだ。しかし、大学一年の僕は違った。ボートで結果を出すことがこの世の全てだと信じて疑わず、一心不乱にトレーニングをした。チームのために何か貢献できないかと粉骨砕身した。こんな風に人は置かれた文脈によって、その時だけ猛烈に感性やモチベーションが情動することがあり、そこを掴み損ねると〝今〟しかできないことのチャンスを逃してしまう。そう考えると難しい損得や利害など考えず感性のまま、情動が起こったらGo Aheadの姿勢で生きていきたいと考えつく。
加えて、自身の過去に誇りに感じる、この「あの時の自分よくやってたな…」感は次なるステージの強烈なエンジンかつ防御システムとして働く。ワードにすれば
エンジン:「あれだけやれてたんだから、俺はもう少し頑張れるよな」「今の自分って、自分を使い切れてないよなぁ」
防御システム:「あの時に比べたら、今の方が楽だから何とかなる」「これまでと比べてもかなり辛いから少し休もう」
みたいなイメージ。
インスタント・ソサエティ(簡易社会化:例えばamazonのおかげでスグに物が手に入るようになったなど)では〝事後性〟が軽視される。何かにつけて「それ役に立つの?」「それ俺に得ある?」という思考体系に陥ってしまう。ここからは好き嫌いの話で、僕はそうなりたくない。長い時間軸で、ゆとりを持って豊かに生きていきたい。
そうなると〝事後性〟は一つ大きなテーマになってくる。砕いて書けば「結局のところ、価値は後付けなんだよね」ということ。
今すぐ寄与される価値や利害に飛び付かない。長い時間軸で見た時に〝今〟しかできないことにフルベットする。こう生きていくことが金融資本主義的に考えたら損なのかも知れないが、人間永久のテーマ〝幸せに生きる〟ためには有用なのではないか…ということをドトールのドリップコーヒーを飲みながら思った。1杯30円なのに美味しい。
P.S
どメンヘラで(←性別問わず)、相手を束縛しまくったり、病みSNS投稿したり、みたいな若さゆえの恋愛衝動爆発病(造語)の発症だって
僕のいう〝今〟しかできないことだと思う。エモーショナル全開丸裸曝け出しまくりな恋愛って大人になって出来るのかな?(多分出来るから浮気とか頻発する。)
なんだって良いけど、やっぱりその年齢だとか置かれた環境だとか文脈的に〝今〟しかできないことって人生で意外に散発してるんじゃないかなと思うので、それを捉えていきたいなぁって、何が言いたいかって恋バナって本当にクダラナイけど大好き。
give&given〜与え、与えられる〜
give&takeはgiveしたらtakeがあるよ、すなわち何か良いことしたら、その対象者から交換的に良いことをしてもらえるという考え方。give&givenは、誰かにgiveしたら、その対象者でない人からgivenすなわち何かが与えられますよという考え方。似ているがこの二つには大きな違いがある。
takeを期待したgiveは、もうその時点でgiveではない。giveはgivenとして返ってくることを心から信じている人にしか出来ない、実はかなり難易度な行為だと言える。
そこで真のgiveが出来る人間になるためには、どうすれば良いのかを考えてみる。僕の考えは《given》を本当の意味で感じるということ。もっと言えば《given》がある環境に身を置くこととも言えるかもしれない。
ここでの環境は何でも良いが、自分の場合はボート部と就職活動という営みだった。
ボート競技を通して数え切れないほどの人にお世話になりまくった。僕のgiveとtakeのバランスシートはぶっ壊れている。
自分はgivenを強烈に肌で感じてきた。今の自分があるのはどうしようもないくらい、間違いなくgiveしてくれた多くの方々のおかげ。これを心から感じているから自分もgiveに回りたいと思うし、いずれgivenで返ってくることを頭で理解しているのでなく心で分かっているから苦でもない。
搾取より与える方が多い人間として生きていき、死にたい。
参考文献一応貼っとくか。
アダムグラント:give&take
山口揚平:10年後世界が壊れても、君が生き残るために今身につけるべきこと