Kokopelli

備忘録と思考と好きな事などをつらつらと。

もう今は出来ないよ、という過去を積み重ねていく

僕が考える価値のあることの一つに、「自分がやってきたことだけれど、今やれと言われた絶対に無理」という経験がある。

この経験の数々が自己肯定を生み出し、修羅場に対した時に自己効力感として武器になる。

人間には〝今〟しかできないことがある。時間的(ex.海外旅行)、身体的(ex.ハードなスポーツ)な制約による〝今〟しかできないことにフォーカスされがちだが、僕は精神的に〝今〟しかできないことに大きな価値があると考えている。

あらゆることがそれに当てはまるが、自分であればボート競技。早朝に起きて午後もひたすらパフォーマンス向上に向けてトレーニングなんて絶対に〝今〟できない。正直に言って今の自分がそれに価値を感じないからだ。しかし、大学一年の僕は違った。ボートで結果を出すことがこの世の全てだと信じて疑わず、一心不乱にトレーニングをした。チームのために何か貢献できないかと粉骨砕身した。こんな風に人は置かれた文脈によって、その時だけ猛烈に感性やモチベーションが情動することがあり、そこを掴み損ねると〝今〟しかできないことのチャンスを逃してしまう。そう考えると難しい損得や利害など考えず感性のまま、情動が起こったらGo Aheadの姿勢で生きていきたいと考えつく。

加えて、自身の過去に誇りに感じる、この「あの時の自分よくやってたな…」感は次なるステージの強烈なエンジンかつ防御システムとして働く。ワードにすれば

エンジン:「あれだけやれてたんだから、俺はもう少し頑張れるよな」「今の自分って、自分を使い切れてないよなぁ」

防御システム:「あの時に比べたら、今の方が楽だから何とかなる」「これまでと比べてもかなり辛いから少し休もう」

みたいなイメージ。

 

インスタント・ソサエティ(簡易社会化:例えばamazonのおかげでスグに物が手に入るようになったなど)では〝事後性〟が軽視される。何かにつけて「それ役に立つの?」「それ俺に得ある?」という思考体系に陥ってしまう。ここからは好き嫌いの話で、僕はそうなりたくない。長い時間軸で、ゆとりを持って豊かに生きていきたい。

そうなると〝事後性〟は一つ大きなテーマになってくる。砕いて書けば「結局のところ、価値は後付けなんだよね」ということ。

今すぐ寄与される価値や利害に飛び付かない。長い時間軸で見た時に〝今〟しかできないことにフルベットする。こう生きていくことが金融資本主義的に考えたら損なのかも知れないが、人間永久のテーマ〝幸せに生きる〟ためには有用なのではないか…ということをドトールのドリップコーヒーを飲みながら思った。1杯30円なのに美味しい。

 

P.S

どメンヘラで(←性別問わず)、相手を束縛しまくったり、病みSNS投稿したり、みたいな若さゆえの恋愛衝動爆発病(造語)の発症だって

僕のいう〝今〟しかできないことだと思う。エモーショナル全開丸裸曝け出しまくりな恋愛って大人になって出来るのかな?(多分出来るから浮気とか頻発する。)

なんだって良いけど、やっぱりその年齢だとか置かれた環境だとか文脈的に〝今〟しかできないことって人生で意外に散発してるんじゃないかなと思うので、それを捉えていきたいなぁって、何が言いたいかって恋バナって本当にクダラナイけど大好き。