Kokopelli

備忘録と思考と好きな事などをつらつらと。

鈍感で幸福or敏感で不幸

https://youtu.be/azkYPy3aAKU

これを初めて見たのはいつだろうか、物凄く印象に残っているし、これは自分の中で巨大なテーマになっています。

まず、この議論は〈良し悪し〉ではなく〈好き嫌い〉であることを先に留意します。ということは、自分と違う志向性の他者を蔑めるわけにこれを書く訳でもないことを念頭に置いておきます。

 

このラジオ音声から感じたことは2つ。

instagramが虚しさを肥大させる。

②作り物のモノガタリに酔い続ける人生で良いのか?

 

①について

instagramを開いてみる。ストーリーや投稿を見る。自分がお酒を飲む、スキーをする、旅行をする、これらを投稿して何の意味があるのか?この問いへの答えは各人によると思うが、私は根底に〈幸せな、満たされてる自分の証明〉があると推察している。批判上等で意見を書けば、要は《虚栄を張っている》だけだ。幸せマウントとでも呼ぼう。

【虚】という言葉の意味は、中身がない・空っぽ、実が伴わない、とある。嘘をつけばつくほど引き返せなく、辛くなるのが人の常。instagramというプラットフォームは【虚】、すなわち盛大な嘘付きの場になっていると感じる。真にハピネスを感じて、内なる充実を感じている人(虚の逆を行く人)はわざわざそれを外に出す必要がない。instagramを積極的に行っている人の中には、自分と他者に嘘を付いて虚構な幸せの証明をしていることに気付いてる人もいるかもしれない。ただ、嘘を全て認めるのには大変なエネルギーを使うので認められない、というか認めたくない。それがマツコのいう「気付かないフリをしている幸福な人達」になる。ってまぁ、こんなことをつらつら考えて、書いてる自分みたいな人には幸福なんて来ないのよというのがマツコのオチだが。。

 

②について

①が長くなりすぎたので短く。ここでいうモノガタリとは、〈一般化された価値観に根ざしたお伽話〉とかって定義しておこうかなぁ。。お伽話の中で踊らされるキャラクターで終わって良いんですか?ってことが言いたいこと。どういうことかは…自分は長らく体育会部活にいたのでそれに例えて書きますね。

体育会部活って、なんとなく【青春、泥臭い、努力、一つのことに熱心、勉強より部活、先輩と後輩の絆、友情、仲間etc..】みたいな漫画みたいな世界観を抱いてる人がいて、上記の【】内を一般化された価値観とします。こういった表層的な価値観に酔っている体育会学生が非常に多く、私はこれを強く嫌悪しています。取り組む競技や学生スポーツの本質・核心に触れようとする人の少なさたるや、それはもう悲惨で辟易します。

でも彼らは幸せなのです、「俺は体育会で頑張っている」「仲間と目標に向かって日々を努力!」みたいなね。本質や核心に全く近付いていないので、それを知る人達からしたら残念極まりない人達なのですが、彼らは主観的にその価値観に酔ってハピネスを感じている。ここで、そんな人生で良いのだろうか?と自問してみる。

体育会で言えば、本気で勝とうとすれば信じられない過酷さが365日続くし、漫画で描かれているような青春感はまるで無しです。勝つための言動、行動、リーダーシップをとり続ける必要がある。端的に言って、非常に辛い。敗北は死。負けたら得るものは何もない。私も負けて、一言も仲間と言葉を交わさずにその日を終えたことがあります。全てをかけて一年間取り組んだにも関わらずです。これは余りに辛く残酷なので、これが正義だとは思っていません。幸せや思い出の観点から言えば、負けた後に「俺ら頑張ったよな」と言ってそれなりの涙を流して、引退した夜に仲間と酒飲んで笑い合う方がよっぽど良い。

 

さぁ、その上で、自分はどっちを選ぶのか?

自分は、何度人生を送るとしても、〈本物になる〉道を選択します。自分が精を込めて取り組むものに関しては、核心とは何かを求め続ける人生を送りたい。表層的なところでそれなりの幸せを感じることを是とは思えない。

結論、自分もこの音源のマツコに賛成だよということだけなのですが、前からずっと考えていたことで、書きたかったので長々と。どうも長くなっちゃうなぁ、かなり削っているつもりなんだけれど。。